左右を木々に囲まれた片側一車線の細い道をのんびりとしたスピードでレンタカーを走らせて行く。

普段、通勤のせわしなさに多少ストレスを感じながら東京の街を走っているので、こののんびりとしたスピードが癒しを与えてくれるものとばかり思っていたのだが、むしろゆったり感に物足りなさを感じて逆にストレスになってしまいそうになる。しかし時折見かける猿や鹿の姿に無邪気に喜んでいるあたり、まあそれなりに楽しめているのだろう。

 しばらく走ると先導のガイドさんの車が右のウィンカーを点滅させる。交差点で曲がるのではなく右手に少し開けたスペースがありそこに入っていくためだ。沿道に茂る木々の壁で見えなかったが右折した刹那に、白い砂浜、コバルトブルーの海、スカイブルーの青空、が紡ぎ出す鮮やかで優しいトリコロールの風景が目に飛び込んできた。吸い込まれるような強烈なインパクトを感じるというよりは、むしろ優しく穏やかで、ある意味淡々とした感じで、ゆったり包み込まれるような風景。それは人の気配がほとんどないことでより一層そう感じさせているのかもしれない。来る時の飛行機は満席。ホテルもほぼ満室。多くの観光客が来ているはずだがここには人が数人のみ。屋久島の中でも穴場中の穴場だ。

   駐車スペースに車を止めトランクから荷物を降ろし、ガイドさんの後をついて行く。このガイドさんは他のガイドさんとは違いかなり異質でいわゆるスピリチュアル的な能力があり、パワースポットで知られる屋久島の中でも独自に探索されたより優れたポイントを案内してくれる。そして案内してくれる場所のほとんどに人がいない。いやむしろ人がいないからこそのスポットと言える。なぜならパワースポットと言うのは人が入れば入るほどそこに存在するエネルギーの純度が落ちてしまうからだ。そう言う意味でこの海岸は純度を保つ希少なスポットの一つなのだ。ただこの海岸であればどこでもいいという訳ではない。砂浜の中でもピンスポットでエネルギーに満ちている場所がある。そのスポットを目指し駐車スペースから砂浜に降りて右に曲がってしばらく歩いていき、100メートルほどのところで立ち止まる。ちょうど海に向かって砂浜を縦に走る小さな水の流れがありそれが目印になっている。ひとまず荷物を置き腰を下ろす。もちろんここには僕ら以外誰も居らず、周りを見渡しても先ほど止めた駐車スペースの正面の砂浜に数人いるだけでほとんど貸切状態だ。その駐車スペースが小さく見えてはいるものの、この場所までそれほど歩いたわけではない。しかし日頃の運動不足を差し引いても砂浜を歩くのはやはり舗装された道よりも体力を使う。それに加えて足が重く感じるのは砂浜の負荷だけではなく飛行機の影響も少なくない。野球をやっていた中学生の時、デパートの中にあるスポーツ用品店にスパイクやグローブを見に行ったり買いに行ったりした事がある。日頃からきつい練習で鍛えているので体力には自信があるのだが、なぜか毎回デパートに入ってわずか10分足らずで強い疲労感に襲われてしまう。一緒に行ってる友達にそれとなく疲れを感じるかどうか聞いてみても「ん?何言ってるの?」と全くピンときていない様子。後に分かったのだが、どうやら電磁波障害と言うものらしい。人間の体内には微弱電流が流れていて、そこに外部から電磁波が入り込むとその流れに乱れが生じ、結果的に頭痛や吐き気、倦怠感などを引き起こしてしまう。体質による個人差があるようで、なんともない人もいれば電磁波に敏感で様々な症状を引き起こす人もいる。僕はかなり敏感な方でデパートや家電量販店には10分程度しかまともに居られない。そして密閉された飛行機の中もまた電磁波がかなり停滞している。従って、東京からトータルで約3時間飛行機に乗った事で電磁波を十分に蓄えていたのですでに足取りが重かったのだ。せっかくの旅行で到着直後から足取りが重いなんて普通なら最悪なのだが、今この瞬間に至っては決して悪い事ではなくむしろここに来た目的を考えれば「仕込み十分」はたまた「最高の仕上がり」とも言える万全の状態なのだ。なぜならこの砂浜で「邪気抜き(浄化)」をするから。

 「邪気抜き」とは体内に溜まった不要物を取り除く事を言う。ヨガや東洋医学、気功などの世界では最もbasicで重要な概念だ。現代ではこの不要物の中に電磁波も入る。邪気が抜けていく感覚、そして抜けた後の感覚、これらを体感するにはより邪気が溜まっていた方が良いわけだ。

 さて、ひと息ついたところでいよいよ邪気抜きを実践する。やり方は簡単で自分の両足を砂浜の中に入れるだけ。白くて大粒で艶のある特殊な砂を足で掻き分けながら足首が隠れるくらいまで埋める。刹那、足の裏がピリピリし始め、タイヤに穴が開いて空気が抜けるようにシューッと足底から冷気が砂中に吸い取られていく。反して体はジワーッと温かくなる。しばらくこの不思議な感覚に身を委ねてみる。視線は、広大で水平線を彼方に感じるトリコロールの風景にフォーカスしている。ところが時を刻むにつれて体が浄化されて行くからなのかくっきりとピントの合った視界のフォーカスが解除され、なんとなくボーッとまどろみかけてきて、それとリンクするように遥か彼方に感じていた水平線までの奥行きがどんどん縮まり、遂には平面にまで行き着いてしまう。まるで一枚の写真を見ているかのように。

写真を見ている感覚が強まると、今ここ屋久島にいると言う感覚も次第に薄れていく。別の場所で屋久島の風景写真を見ている感覚。そっと目をつぶってみる。なんとなく自分の部屋をイメージすると、本当に部屋の中にいるような感覚に陥る。目を開ければ43インチのテレビ、お気入りのマンガとノンフィクションのペーパーバックがメインの本棚、滅多に飲まないのにたまたま飲んだ時に限ってこぼしてしまったワインのシミが薄っすら残ったソファー、空気清浄やAIを兼ね備えたエアコンなど、目を開ければ見慣れた風景がそこに現れるんじゃないかと言う感覚。

そう、これは時間も空間も無くなった「いつでも今、どこでもここ」なのではないか?

もちろん厳然と屋久島の海岸にいるんだけれども、意識の中でタイムスリップして東京の自宅部屋と屋久島の海岸を瞬時に移動している感覚。

なんとも言えないこの不思議な感覚をもうしばらく体感したいと言う思いとは裏腹に、この非現実の遊覧も長くは続かず、無情にも現実がカットインしてくる。無情と言うのはこのファンタジーの切断に対してのものだけではなく、次に浮かんだ一つの仮説に対してのものでもある。それは、例えば僕の部屋は僕がいなくてもカーテンの隙間から西日が差してソファーの背もたれを温めたり、予約が作動してお気に入りのバラエティー番組を録画したりしてある意味日常を過ごしている。或いはこの屋久島の海岸も僕がくる前も僕が帰った後も、美しいトリコロールの風景を創り出している。つまり僕がいようがいまいがそれらはそこに存在し活動している。いや、それらだけでなく万物がそうだ。僕と世の中はセパレートされているじゃないか?僕がいなくても世の中困らないし大きな混乱が起こるわけでもない。と言うことは僕は世の中にとって必要のないちっぽけな存在なんじゃないのか・・・。

と、その時ハッとして今度はまどろみが解除された。「どこかで見たぞ!いや感じたことがある!」。もちろんこの切り取られた同じ風景を以前に見た事があると言うのではなく、3次元のリアルな風景が2次元平面に落とし込まれ一枚の写真のようになり、自分の存在を疑った感覚。

それが、小学6年生・5月、東京・葛飾区にある新葛飾橋の上から風景を見渡した、その時だった。



班長ー!ちゃんとこっち来て先頭に居なきゃダメなんじゃないのー!」

歩きながら後ろを振り向いた安岡夕子が10メートルほど後ろにいる僕に向かって声を張り上げた。帝釈天の参道に響き渡ったその声は明らかに苛立っている。それは声のトーンはもちろん、普段は「進藤」と呼んでいるのに、わざわざ嫌味ったらしく「班長」と呼んだことからも容易に察しがつく。

列の先頭は1班から始まっているので、5班にいる片岡、6班にいる小林と合流するには必然的に僕が歩速を徐々に緩めて5班の位置にまで下がる必要があり、その位置で合流してからはホバリングしながら3人でワイワイ楽しんでいたが、安岡夕子の機嫌をこれ以上損ねるとあとあと厄介なことになるので、

「やべえ、あいつ怒ってから、一旦戻るわ。また後でな!」

と言いながらお決まりのハイタッチを交わして、歩速をやや上げながらゆっくりと1班目指して進んで行く。

走って戻らなかったのは、僕が6年3組の実質的なクラスリーダーであり、確かに安岡夕子は女子のリーダーだけれども、彼女に言われてすごすご戻ったとなると示しがつかないし、それだけでなく、普段から安岡夕子は腕相撲やサッカーのPKなどなにかと僕に勝負を挑んで来て、しかもその時は女子が全員彼女の応援をしていて、女子代表として必死の形相で挑んでくるのだが、ことごとく僕が勝っているので、いわゆる王者としての優位性を示す意味もあっての歩速だった。

ただ一度だけ、勝負に勝った時、冗談半分で大袈裟に勝ち誇ったら彼女が泣いてしまったことがあった。負けた悔しさと言うよりは、僕にバカにされたことが悲しかったような、そんな表情で思わず涙が出てしまった感じがした。それ以来、僕は安岡夕子が悔しがったり、或いは怒ったりしているところまでで事を収めるようになった。その先はもう見たくないと思ったから。だから早歩はしたものの、このタイミングで1班まで戻ることに躊躇は無かった。

心の中ではちょっと焦りがあり早歩きもやや力み気味だが、表向きは余裕をかまして、目線もある意味優雅に周りを見渡しながら歩いていると、当たり前だけれども改めてみんなの格好がいつもと違うことに気付く。健脚大会ということで新しいスニカーを履いていたり、いつものランドセルとは違いリュックを背負っていたりするのだ。特に女子はこう言う非日常を楽しむのが得意で、服装もいつもよりちょっとオシャレだったり、リュックも可愛らしいデザインのもだったりで表情も足取りも弾んで見える。男子は単純だから、そんないつもよりちょっと輝き明るい女子につられてテンションが上がり、ちょっかいを出したり、普段の冷静な時なら絶対にやらないモノマネなどして無意識に女子の気を引こうと躍起になっている。そんな光景を横目に見ながら早歩きで進む先にも、いつもとちょっぴり違った輝きを見せる安岡夕子がいる。

肩甲骨のあたりまで艶のあるやや自然なウェーブを纏った黒髪を、いつもは黒いゴムでまとめてポニーテールにしているのだが、この日はオレンジのリボンが結ばれ、その黒髪を一層綺麗に引き立て、またその黒髪がオレンジ色をさらに際立たせて、いつもの活発で勝気な彼女から、ほんのり可憐さを見て取っている自分に戸惑いとくすぐったさを感じながら、やはり表情には出さず歩き続けると、揺れるリボンがだんだん大きくなってくる。


「でけー声出すなよ。ハズいだろ。」

1班に追いつくなり、安岡夕子に声をかけた。


班長なんだから先頭で歩くの当然でしょ!て言うか、班長じゃなくたって自分の班から抜けちゃダメでしょ!」

相変わらずの口ぶりだが、声のトーンはだいぶ落ち着いていた。

そんなやりとりを、見慣れた様子とばかりに、にこやかに見ている今北知子と目があった。


「お、キタ居たんだ。小さくて見えなかったわ〜。みんな背が伸びてく中、縮み盛りの小6ってお前くらいだよな〜」


言い終わるか終わらないかのタイミングで肩のあたりをペシっと安岡夕子に叩かれる。


「また!もう!!やめなよ!!ねえ、キタ?」


口調は強いものの、先ほどのイライラモードとは違い、少し和やかなトーンを含んだツッコミだった。もちろん今北知子もしかめっ面に少しの笑みをブレンドしたいつもの表情で安岡夕子を見ながら軽く頷いた。


僕がクラスのリーダーなのはケンカが強いからでも、勉強が出来るからでもない。もちろん自分からそうなりたかったわけでも、なにがしかの力でクラスメートを支配してる訳でもない。自分で感じているのはまずは笑い。休み時間はもちろん授業中でも面白いことを思いついたらどんどん言ってしまう。そのことで授業の妨害になってしまうのは分かっているけど、それをはるかに凌ぐ和やかさと癒しの効果があり、いやそれよりもただ単純に楽しく、面白いのだ。言ってる自分が楽しんでいるよりもみんなの方が何倍も。

小学生と言えども生徒によっては家庭や友人関係など色々思うところもある。それが学校に向かう、或いは学校から家に帰る足取りを重くする。でも面白い、ただそれだけのことが足取りを軽くまでとは言わないまでも、余計な重さを感じない程度に調整してくれる。ボクシングでは1グラムでも体重をオーバーすれば失格で試合ができない。何事かを背負い生活の場に立てるかどうかギリギリの生徒の重荷の1グラムを、学校での面白さがそぎ落としてかろうじて立たせてくれることもある。

クラスのみんなはそんな笑いの効果、面白いことを自ら純粋に楽しもうとしている

リーダーになり得ているもう一つの理由は、クラスメート一人一人の性格を理解した上で会話し、必要な役割を任せているからではないか。

例えば学芸会で演劇をやる時、主役はリーダーの僕がやることに誰も反対はしないし、嫉妬や妬みや嫌悪感もなく、快く受け入れてくれるはずだ。ところが僕はそうはしなかった。

普段から僕は目立っている。その僕が主役をやったところでいつもの当たり前の光景の延長でしかない。非日常をより楽しむためには意外性が欠かせない。なのでクラスの中でもおとなしい性格の松田孝を主役に推薦した。タカシ意外にもおとなしい性格のやつは何人かいたけど、その中からタカシをチョイスした。

体育でサッカーをやっていて、控えめに後ろにいてあまりゲームに参加してこないけど、ひとたびボールを持つと本気になる。体育が苦手でおとなしいやつはボールが来ると迷惑そうに、蚊でも払うかのように、行き先構わずさっさと蹴り出すのだが、タカシは運動神経も悪くなく、ボールの出しどころを見極めて蹴る。この頃から、積極性はないけど、目立つことが根っから嫌いではなく、何かを任せれば弾けるんじゃないかと密かに思っていた。そこで学芸会が絶好のチャンスだと思い主役に推薦した。僕の感は当たり、堂々たる演技を観せてみんなを驚かせた。僕は照明係をやった。仮に端役でもクラスリーダーの僕が舞台に立つと主役のタカシだけじゃなく、みんながやりにくくなるのは分かっていたから。舞台で輝くタカシをライトで照らしながら、純粋に嬉しかったことと、「自分が主役だったらなあ」と言う気持ちが全く起こらなかったことにホッとした。後日タカシのお母さんが目を潤ませて僕に感謝の言葉を掛けてくれた。


そんな日頃の僕を冷静に見ていて、ある種のジャッジを下した上での、しかめっ面と笑顔がブレンドされた今北知子の表情だった。

キタは両親ともわりと背が高く、自分が小柄なことを気にしていた。でも輪郭と口元はお母さん、目鼻立ちはお父さんに似ていた。この両親の子に疑いようもない。

キタは口数は多い方ではないけど、温和な性格で、かと言ってクソ真面目と言うわけではなく、僕が授業中にウケを狙って何か言うたびに、ケラケラと楽しそうに笑っている。毒のある笑いにも引くことなくついてくる。ある時そんなキタを少しイジってみた。それまでのキタの反応を見ていてイジりを受け入れる心のクッションは柔らかい方だと確信していたのと、小6としても童顔に見えるキタの表情がたまに寂しそうに遠くを見ていることがある。しかも普段は目立たないポジション。なのでイジることで「ちゃんと見ているぜ」、「仲間だろ」と言うメッセージにもなって、時折キタの心に訪れるモヤモヤを多少なりとも解消出来るかもしれないと思ったからだ。

イジリは当然様子見のジャブから入る。イジリは決して相手をバカにするものではないし、バカにするようなものになってはいけない。相手の性格、イジリの内容、言い方、タイミングを間違わなければ最高のコミニュケーションになるけど、そこを間違えると相手を傷つけるだけになってしまうこともある。そんな危険をはらんだことをなぜやるかと言えば、イジリが決まった時の感覚がなんとも言えない充実感をもたらすから。と同時に、相手との距離が一気に縮まり仲良くなれるから。

僕がキタの最初のイジリの素材に選んだのはシャーペンの持ち方だった。キタはシャーペンの極端に先の方を持って字を書いていた。シャーペンのボディの終わりから芯が出る先端までの三角錐の部分を持っていて直接芯をつかんでいるように見えるくらいだ。

斜め後ろの席で何やらカリカリノートに書いているキタの方を振り返って、

「今北って、シャーペンすげー下持つよな。ほぼ芯じゃん。あれだろ、タワーマンションでも1階に住むタイプだろ」

キタはケラケラ笑った。不快の上澄みのない純粋な笑顔で笑ってくれた。

ホッとしたのと、その笑顔に後押しされてもう少し話してみたくなった。


「1階に住むって、高所恐怖症なんだろ〜」

「そんなことないよ。私、高いとこ平気だよ」

「いや、親指は高所恐怖症のはずだ!」

さっきより大きく笑った。もう少しいけるだろう。

「高いとこ大丈夫なら、将来はCAになるか?あ、ダメか。身長で引っかかるな。」

勝負に出てみた。もちろん勝算はある。

「むん〜」

なんとも言えない唸り声のような音を漏らしながら、ふくれっ面をしているが目は笑っていた。そのふくれっ面を僕が真似してキタを睨み返したのが効いたのと同時に、「むん〜」の唸り声の息が切れて、「むふっ、むふっ」ってへんな音になった瞬間、二人同時に爆笑した。近くにいた数人はこの様子を見ていたので一緒に笑っていて、教室の隅の方にいた連中は何事かとこっちに注目したけれど、僕の姿を確認すると「また進さんが何かやってるな」といつもの光景を確認するとそれぞれの会話に戻った。

確かにいつもの和気あいあいとした光景と言えばそうだけど、僕にとってはキタに対して初めてのイジリで、見た目とは裏腹にヒリヒリとした緊張感を伴った空間だった。プロ野球のピッチャーでも初回の入り方が一番難しいと言う。少年野球をやっている僕にはよく分かる。そういう意味では上々の立ち上がりだった。

キタの心のクッションにソフトランディング出来て、お互いに心がホワ〜ンと暖かくなった。だからと言ってこの後、キタとしょっちゅう話すと言うことはなく、幼馴染の木崎祐美との会話量に比べたら半分にも満たない。それはキタが木崎ほど話し好きではないので、無理に量を増やすと返って鬱陶しくなるし、女子には珍しいピンポイントの内容重視のタイプだから。

僕はこの会話の後から今北を「今北」から「キタ」と呼ぶようになった。まもなくみんなもそう呼ぶようになった。


1班に追いつき、今北知子を軽くイジり、安岡夕子に突っ込まれるルーティーンを終えると、先頭である班長のポジションに付く。

健脚大会は6年生の5月に行われる。江戸川の上流側にある新葛飾橋と下流側にある市川橋を渡ってぐるりと一周する土手沿いのコース。柴又駅を降りて帝釈天の参道を抜けて迂回すると、新葛飾橋と市川橋のちょうど中間付近に当たる金町浄水場辺りの土手に出る。今はそこに向かって参道を歩いている。土手に出るとまず市川橋の方に南下し、市川橋を渡って今度は北上してしばらく行くと里見公園があり、そこで昼食の予定。さらに北上し矢切の渡しを超えてしばらく進めば新葛飾橋まで到達し、そこを渡り南下して金町浄水場を通過してスタート地点の柴又に戻る。約10キロ。歩くだけで約2時間、昼食や休憩を入れて約4時間の予定になっている。


前を歩く6年2組の最後尾に僕ら6年3組の1班が続く。ひと班6名で全部で6班ある。班を決めるのは6年生になってすぐにくじ引きで決めた。6年生はクラス替えが無く、5年生のメンバーがそのまま移行するので特別新鮮味はないけれど、班=席順を決めるのは毎回テンションが上がる。教卓に向かって縦の列は左の窓側から右の廊下側に向かって女子、男子の順で交互に6列あり、給食の時やホームルームの時などは男子3、女子3の机を向かい合わせて班を作る。僕は左から2番目の列、前から2番目の席で前はいつも行動を共にしているゲーマーの大木、後ろは生真面目でおとなしく、いつもは僕とは別の文化系の仲間と一緒にいる小島、同じ班になる僕の左隣が神のいたずらなのか必然なのか女子リーダーの安岡夕子、その後ろが今北知子、一番前は学年一勉強が出来る足立望美。ただし足立はクジではなく目が悪いと言うことで一番前を自ら申告していて、いわゆるシード状態で決まっていた。でも「目が悪い」と言うのは口実で、本当は勉強に集中したいんだろうと誰もが思っていた。そしてその集中したい要因に僕が関わっているとみんなは思っていた。僕は授業中も構わず自分が面白いと思ったことを教室というマクロ空間の単位で発言するだけでなく、前後左右に仲間がいればそのミニマムの空間でも好き勝手に喋るので石橋洋子先生に怒られることが多い。足立はマクロの空間はやむを得ないとしても、僕のミニマムのゾーンに関わるのだけは避けたいと思っていて、その最善策として一番前を申告したと思われているのだ。みんなは足立が勉強が出来ることを知っているので最前席を申告したことに誰も文句は言わない。もちろん僕も異論はない。でも僕はあえて先生にある提案をした。それは最前席が6席あるので、そのどこにするかはクジで決めたらどうか?と言う提案だった。それは足立一人だけクジがないと言うのは、理由は納得出来るものだけど、やはり特別扱い感が否めない。これは僕の勝手な憶測だけれども、それでも足立を5年生の1年間見てきて全くの的外れとは言えない感覚を含めて、足立自身がクジのないことに少しだけ引け目を感じてるんじゃないか?足立は勉強が出来る奴にありがちな独特のツンとした感じがあって、おそらくそれは芯が強く勉強ができるプライドから来てるんだろう。都心にある有名な塾に通っているのも、私立の中学を目指しているのも知っている。だから自分のために一番前の席を申告するのも当然だと思ってるだろう。また正義感もある奴で、掃除をサボってる男子や日直が黒板を消してなかったりすると必ずと言っていいほどあの独特のツンツンモードで注意してくる。それを考えると、これは僕の推測だけど、最前席を申告したことの正当性が90%、自分だけクジをやらないで席が決まってしまうことの違和感が10%なんじゃないかと思った。だから最前席6席のくじ引きをやることで、その10%を消してやろうと思ったのだ。それに加えて、やっぱりくじ引きのスリリングな感覚を味わってもらいたいとも思った。中学受験の最前線で戦ってる足立にとったら、たかが席決めかもしれないけど、受験と違って答えのない偶然性のゲームは塾ではなく学校でしか味わえない経験のような気がした。いやもっと言えば本来の目的とみんなが思っている、僕からの遠距離工作も、僕が引くクジ次第で崩れるかもしれないわけで、そうした答えのない運命がどうなるのか?それをどう受け止めどう対処するのか?それが試されるような気がした。でもそのクジ引きの時は、僕はそこまで考えず、ただ足立にクジを体験させてやりたいとなんとなく思っただけだった。

足立はくじ引きの提案に応じて一番左の最前席になり、その数十分後に僕のミニマムゾーンに入ってしまったのだ。女子リーダーの安岡夕子と同じ班になり、クラスの男女のリーダーが隣同士になることのインパクト、前の席に気心の知れた大木が来たことで、僕のミニマムゾーンが確保されたこと、実はそれら以上に足立が同じ班でミニマムゾーンに入ってきたことの方が背筋が寒くなった。それはどうしても忘れることの出来ないあの出来事があったから。


5年生の時、僕らの仲間の黒木と足立がひょんなことから言い合いになったことがあった。例によって足立が黒木の行動を注意したのだ。それに怒った黒木が言い返す中で、「てめえ頭良いからって調子に乗ってんじゃねーよ!だから嫌われるんだよ!」と言ってしまった。それまで持ち前の正義感で時々男子と口ゲンカすることはあったけど、何を言われても口を真一文字にして眼鏡の奥の目をギラッとさせて睨みつけながら理屈で言い負かしてきた。ところがこの黒木の暴言を受けた途端、前のめりの体も、睨みつけている表情もそのまま硬直してストップし全く動かなくなり、数秒して顔が崩れて泣き顔になったかと思ったら涙がスーッとこぼれ落ち、ギューっと引っ張って静止させたゴム紐を、一気に離した時のように一瞬にしてそれほど足の速くない足立の体が教室から飛び出して行った。そのまま足立は女子トイレに閉じこもった。

男子は女子との口論の末に、たまに泣かしてしまうことがある。そんな時は必ず女子達が集まってきて泣かせた男子を責め立てる。男子達も集まってきて対抗するものの、やはり女子の涙には弱い。泣かせてしまった引け目があるのでそれほど強くは出られない。3年生あたりまではそこまでは感じずに応戦してさらに泣かせる子を出してしまったこともあるけど、6年生になるとやはりそれなりにブレーキが掛かる。そのブレーキの正体が何なのかは分からないけど、ただそのためにやり返せなくて悔しいと言うよりは、なんだかちょっと誇らしい感じがした。

対抗する女子達の中には、よく見ると泣いた子とあまり親しくない奴もいて、「いや、なんでお前がそこにいて、そんなに口尖らせてんだよ」と心に思う時もあるけど、そこでそれを指摘するとややこしくなるので黙ってはいる。義理で来てるのか?泣いた子の友達の友達だからなのか?プロ野球の乱闘シーンでも、ベンチから出ない選手は罰金らしい。仲間がやられた場合はとりあえずベンチを出て駆けつけなければならない。そんな感じで参加してるのか?男子の場合は特に親しくない奴が参戦しなくてもあとあと文句を言うことはないので不思議な感じがする。ふと、テレビドラマでママ友の公園デビューとか、マンションでの付き合いなどからトラブルに発展する話を観たことを思い出し、女って大変だなあと妙に感心してしまう。

女子から総攻撃を受けている修羅場でそんなことを思うのは、やっぱり自分が主犯ではなく、そいつを擁護する弁護士的な立場なのと、泣かれてしまっては、もうこっちが一方的に言いたいことを聞いて相手がスッキリするのを待つしかなく、なにか第三者的な感じがしてるからかもしれない。

しかし、今回の足立のケースは全く違っていた。トイレの個室に鍵をかけて閉じこもり出てこないどころか一言も発しない。最初は泣き顔が見られたくないから隠れたのか、ちょっと大げさにして男子を威嚇しようとしてるのか、そんな程度に考えていた。いやそうであって欲しいと誰もが思っていた。でもその可能性が低く、ヤバいんじゃないかと言う思いが強かったのは、それが足立だったから。足立がそんなパフォーマンス的なことをやるはずがないから。

足立と仲のいい田川と三上の女子2人が様子を見に行ったけど、泣き声がするだけで問いかけには返事がないと言う。

話しを聞いて駆けつけた安岡夕子が中に入る。しばらくして出てきて首を振りながら、

「ダメ。泣いてるだけでなにも話せない」と困った表情をする。

田川が、「ねえ、先生呼んでこようか?」と言ったが、僕と安岡夕子は目を合わせてお互いの意思が一致してるのを確認し、彼女が

「それはもうちょっと待とう」と田川に言った。

怪我をしてるわけではないし、先生が来て大げさになったら、足立が余計に出ずらくなるはずだと。そうなる前になんとか解決しようと思っていた。

僕の方から安岡夕子に、まず黒木に謝らせようと言った。しかし拒否された。私や田川でも聞く耳持たないのに、張本人の黒木が出てきても火に油を注ぐだけだと。もちろんそれも第1手としてはアリなので、それを見越して「黒木も謝りたいって言ってる」と声をかけてみたが、返って泣き声が強まったような気がして、黒木は無いなとジャッジしたと。僕の思ってたよりはるかに上の対処を冷静にしていたのに驚きと頼もしさを感じた。でも、そんな安岡夕子でもどうにもならない。

あまり時間がかかるとやはり先生を呼ばないわけにはいかない。どうなるか分からないけど、自分のできる事で勝負してみるしか無い。もう時間がない。

「わりーけど、俺女子トイレに入れさせてくれっかな?んで2人切りで話しさせてくんない?」

安岡夕子に頼んでみた。それしかないだろうと言う表情で「頼むわ」と曇った顔のまま言った。

当たり前だけど、女子トイレに初めて入った。個室しかない空間にトイレという感じがしない。思ったより清潔で静かな空間に足立のすすり泣く声が反響している。

「おう、足立。なにそんな狭いとこ閉じこもってんだよ。マジシャンの内ポケットに仕込んであるハトかよ!」

一発目にしてはわりといいやつ決めた。すると、すすり泣く声が止んだ。止んだだけで笑いはない。この状況でこいつ何言ってんだ?的なポカーンと言う状態か?

「お前、そんなとこ籠って、蝉ならあと7年出てこれねーぞ」

すすり泣きは止んだままだが笑いは来ない。スベったか?まだポカーンか?

「お前、ちょっと立ってみな?立って背伸びしてみな?野菜スティックで誰も取らない余ったセロリか!」

やべー、分かりにくかったか?スベったのか?相変わらずの沈黙。

「お前あれだろ、急にディズニーランド行きたくなって、どこでもドアだと思って入ったら、ただのトイレのドアだったんだろ!」

もちろん、「トイレのドア」の発音の抑揚は「どこでもドア」と同じにした。クスッとも来ない。続く静寂。

「お前、もしかしてここカラオケボックスと勘違いしてねえか?ドリンクバーで便器の水飲み放題じゃねーわ!」

ガサゴソっと音がした。が、静寂のまま。でも静寂ということは、笑いもないが泣き声もないわけだ。

「ダメだわ足立。これ以上浮かばねーわ。でも俺としては結構いいの出したと思うんだけどな。つーか、お前笑ってたろ?そっか、仮にウケてもこの状態じゃ笑い声出せねーよな。そりゃそうだ。てか、最後は確実に笑ってたろ?声出ないようにとっさに手で口塞いだろ?なんかガサガサって音したもん。だったらよ、もうある意味お前は俺の客だよ。ここが劇場ならライブ観に来て笑ってくれた貴重な客だよ。いやもうファンだよ!勝手にファンにしちゃうよ。だからよぉ、俺また教室でなんか言った時さ、ウケたかスベったか、お前のことも見てチェックするからな。大木とか片岡、小林達見るのと同じくな。いや、お前は別に余計なこと考えなくていいからな。勝手に俺がチェックするだけだから。俺ん中ではもうそう言う役割にお前を組み込んだ。普通、嫌いな奴にそんなことしねーよな?そう言うことだわ」

夢中でまくし立てた。こんな恥ずかしいこと、この特殊な状況を切り抜けるためじゃなければ絶対に言えない。

「足立よう、もしそれでよかったらさ、出てきてくんねえかな?確かに出て来てすぐ教室行くのは気まずいだろうからさ、とりあえず腹が痛いってことにして、出たその足でひとまず保健室に直行しようや。外で安岡が待ってて連れてってくれっから。そんで落ち着いたら教室戻りゃいーじゃん。それでよかったらさ、OKって意味の合図でさ、ドリンクバー、じゃなかった、便器の水1回流してくれっかな」

数秒の沈黙があって、水を流す音はしなかったが、カチャっと鍵が開いた。

うつむいてグチャグチャになったショートヘアの髪を手でそそくさと直しながら気まずそうに足立が出てきた。

「お疲れさん。て言うか、お前俺のファンなんだから先に外出て、俺の出待ちするか?」

クスッと笑った足立をそこに残して僕が外に出て、後を安岡夕子にバトンタッチした。


この件が最小限に解決されたからなのか、この後の足立の態度は以前の通りになり、僕らもそれを受け入れていつも通りに接していた。そんな中、6年の最初の席決めで足立と同じ班になり、ミニマムエリアに入ってきた。しかもクジで。あの時のトイレでの対話をどう感じたのか、その後足立に聞いたことはない。僕は足立がトイレにまで閉じこもったのは、黒木が言った「勉強ができることで嫌われている」と言う言葉が直接効いたわけではないような気がした。それだったら足立が最も自信のある分野で、それほど勉強が出来るわけではない黒木に言われても、「あんたに言われる筋合いはない!」と言葉には出さなくても心に思うはずだ。それだけの芯の強さとプライドは持っている。だとすればトイレに逃げ込むどころか余計に突っかかって行くはず。なぜトイレに閉じこもるほどダメージを受けたのか?

足立の家は歯医者さんで、ひとりっ子の足立が家を継ぐと言う話しをなんとなく噂で聞いたことがあった。それで偏差値の高い私立の中学を受験するのために都心の有名な進学塾に通っていると。うちらの下町の小学校でクラスはおろか、学年でもそこまで勉強に気合の入ったやつはいなかった。だけど、これは全く僕の勝手なイメージなんだけど、歯医者さんになった足立を想像できなかった。6年生で将来の姿のイメージもへったくれもないけど、それでもピンとこないと言うか似合わないと言うか。例えば、プロ野球選手の僕はみんな想像できると思う。プロゲーマーの大木もそうだ。家が喫茶店の高丘さつきが給食当番で配膳してると、教室がスターバックスに見えるくらい似合いすぎている。そんな風にイメージ出来る奴らはそのことが根っから好きだし、その想いが普段の仕草に乗り移ってるように感じる。でも足立からはそれが感じられない。歯医者の想いがどんな形に現れるのかは分からないけど、なんらかのドクター感って少しは出るんじゃないか?それが感じられないってことは、足立自身が本当は歯医者になりたいと思ってないんじゃないか?なんとなくそんな気がしてた。本当は何かやりたいことや好きなことがあるんじゃないのか?でも歯医者を継がないと親に認めてもらえないんじゃないか?ひょっとしたら親に「継ぎたくない」と言って怒られたことがあるんじゃないか?自分のためではなく親のために歯医者になることを決めて、そのために勉強をしている。って言うのは考え過ぎかもしれない。でももしこの思いを持った足立に「勉強できるから嫌われんだよ」と言えば、ちょっと乱暴な言い方かもしれないけど「親に気に入られるために好きでもない歯医者になろうと勉強してるのに、そのことでクラスメートに嫌われるってどうすればいいの!」って、一瞬にして頭も心もバグってしまい、そうなるとトイレに閉じこもるのも頷ける。トイレの中で足立と対話した時はここまではっきりとしたイメージは浮かんでなかったけど、ニュアンスは感じていた。

足立が心の奥底に仕舞い込んで蓋をしていたものが、黒木の言葉がスイッチになって一気に噴き出したのかもしれない

僕に出来ることは面白いことを言って笑ってもらうしかないから、無我夢中で考えてできる限りの事はやった。それが足立の心に響いたのか、ただ時間が経って冷静になっただけなのか、真相は分からないけど結果的にトイレの鍵は開いた。

その足立が、僕の左斜め前に座ることになる。僕は授業中に笑いのためにする発言をやめない。マクロ空間でもミニマムエリアでも。足立の勉強の邪魔になるかどうかは分からない。でも受験勉強は塾でするもので、学校の授業なんて役に立たない。むしろ学校は気休めになれば良いんじゃないか。教室での笑いのひと時は受験ロードにとっての道の駅。そう自分に言い聞かせた。


6年3組は班長の僕、安岡夕子、大木、小島、今北知子、足立望美の1班を先頭に合計6班が、前の6年2組、後ろの6年4組の間に位置し、江戸川の土手を目指して柴又帝釈天の参道を歩いている。10:00近い時間でほとんどのお店は開いているけど、平日のこの時間なのでまだ多くの人が訪れているわけではなく、でもお昼近くになれば賑わってきそうな雰囲気を漂わせている。

僕ら生徒は当然お店で商品を買ってはいけないけれど、わざわざ参道を通っていくと言うことは、雰囲気を楽しむと言う先生達の配慮なので、ウィンドウショッピングならぬ参道ショッピングでゆっくり歩きながらお店の商品を見たり、店員さんと一言二言会話したりすることは暗黙の了解で許されている。僕らの学校がある墨田区東向島からは京成曳舟駅で電車に乗り青砥駅まで行き、乗り換えて柴又駅まで約30分掛かる。決して遠くはないし、寅さんで有名なところだけど、地元の百花園や白鬚神社と比べれば行ったことがない生徒がほとんどなので、先生達も配慮してくれたんだと思う。

僕も様々なお店に目をやりながら参道の雰囲気を楽しんでいると、腕をポンポンと叩かれた。後ろを振り向いても誰もいない。あれ?と思ってちょっと目線を下げると、小柄なお婆ちゃんがいた。

「今日は遠足?」

お婆ちゃんと言っても弱々しい感じではなく、姿勢もしっかりとしていて、ハリのある声で尋ねてきた。

「ん〜、そうですね。土手をぐるっと歩いてきます」

立ち止まってゆっくり話すことは出来ないので、健脚大会の説明をするのがめんどくさく感じ、遠足でいいや、そんなに大差ないし、と思ったけれど、お婆ちゃんに嘘をつくのはなんだかダメなような気がして、後から少し付け足した。

「これ持ってきな。疲れた時は飴が一番良いのよ」

と言って小さなポーチのようなものから一握り飴を掴んで僕に差し出した。

一瞬貰うかどうかためらった。先生に見られると怒られるかもしれないから。お婆ちゃんは差し出した手をさらに伸ばして「はい」と言いながら、みんなにも分けてあげなという意味で顎を僕の周りの生徒の方に向けた。

先生が見てないか周りをキョロキョロ確認して飴を受け取った。お婆ちゃんはそれを察して、渡してくれた手の人差し指を口に当てて「しーっ」と言いった。受け取った5、6個はレモンの飴だった。お婆ちゃんだからてっきり黒飴系だと思ったのでちょっと意外だっし、義理で貰ってそのまま家に持って帰ることなくすぐに実戦投入出来そうだ。ちょうど班のみんなにも配れる。

さらにお婆ちゃんがポーチから何かを取り出し、今度は僕の手を引き寄せて素早く直接手渡してきた。

「え?これは」

僕が言うと、

「御守り代わりに持ってなね」

そう言うとお婆ちゃんは反対方向に歩いて行ってしまった。何か動物の形をしたキーホルダーだった。

もっと高価なものならさすがに追い掛けて返したけれど、キーホルダーだし、また班から離れて安岡夕子に怒られるのも面倒なのでそのままもらってしまった。改めてよく見るとぬいぐるみを小さくしたような、親指くらいの大きさの可愛らしい動物だけども、すぐに名前が出て来なかった。

「これなんだっけ?」

大木に聞いた。

カピバラだよ」

「あー!そうだ!カピバラだ!」

大木にそっとレモンの飴を渡した。なんか芸をしたアシカに餌をあげるみたいでちょっと笑ってしまった。

大木は一部始終を見てたので、何も言わずにレモンの飴を受け取った。

「知り合い?」

大木が聞いてきた。

「いや、全然知らない人。なんだったんだろうな」

「さあ」

ちょっとしたやりとりだったのは間違いないけど、意外と見てた人は少なかった。みんなそれぞれお店を見たりしてわりと自由な感じだったので気付かなかったようだ。

「今、お婆ちゃん居たよな?見ただろ?」

「うん。見たよ」

「俺にしか見えてねえのかと思ったよ。参道だし、やべえパターンのやつかと思ったぜ」

大木が苦笑いした。

「いや、こないださあ、チャリンコでいろは通り走ってたらさぁ、猫が反対側に渡ろうとして陰に隠れながらかがんで『位置について、ヨーイ!」の態勢でさ。ただ反対側から車が来てて、このタイミングだと轢かれるかもしんなかったから、チャリのベル鳴らしたんだよ。そしたら猫がピクッとしてこっち見て、慌てて引っ込んだわけ。だからさ、これあれだろ、恩返し的なやつじゃねーの。『あの時は命拾いしました。ありがとうございました』ってさぁ。で、あれは猫じゃなくてカピバラだったんだよ!」

「いや、野良カピバラなんていないよ!」

大木が的確に突っ込んできた。

「とりあえず飴食おうぜ。せっかくの恩返しなんだから。でもこれ食ったらお爺ちゃんになっちゃうんじゃねえか?」

「それ、浦島太郎!」

2人で笑いながら飴を口に入れた。思ったより酸っぱかった。


帝釈天の参道を抜けて迂回し、しばらく歩いて江戸川の土手に出た。抜けるような青空で、土手特有の強い風もなく爽やかで最高の天気だ。野球の練習や試合は荒川の土手でやることが多いので、僕にとって土手はホームグラウンドのようなもの。土手のグラウンドの土で泥だらけになったユニフォームで家に帰ると、必ずお母さんが「そのまま中に入らないで!玄関で全部脱ぎなさい!」と言ってくる。玄関には砂や乾いた泥が散乱するのはもちろん、そのまま入ると家の中も砂だらけになってしまい、2LDKのDが土手のDになってしまうので、しっかり玄関で落として、濡れタオルで体を拭いてから中に入る。僕にはそれほど馴染みのある土手だけど、みんなはめったに土手には来ないだろうから、おそらくこの、東京の下町に住んでいる者にとっては「雄大」な景色を目の当たりにして、広々とした景色、川と土と芝生の混ざった、或いはそれぞれが時間差で交互にやってくる匂いに普段ではなかなか体感しない清々しさとワクワクを感じているんじゃないか。


土手を下流方向の右に進み、市川橋を目指す。土手に上がるまでは班の隊列に厳しかったけど、ここからはわりと緩んで、多少バラついても先生にも安岡夕子にも注意されることはない。時折通り過ぎるジョギングや自転車の人の邪魔にならないよう注意を払ってみんなに指示するのは主に班長の役目だと事前のホームルームで言われていたので、


「草スキーやんない!」

興奮した小林がどこからかダンボールを持って走ってきた。

「どうしたんだ、それ」

「トイレ行ったら、2組の藤井が教えてくれた!結構束で置いてあったよ!」

「よし、ナイス!土手行こうぜ!」

小林、大木、片岡を引き連れてダッシュで土手に向かった。一応先生に聞いてから、と言う選択肢はなかった。もしダメだと言われたら一回も出来ない。でもやってるのがバレて止められるなら何回かは出来る。だったらバレる前に出来るだけ楽しもうと思った。

ただ、土手に向かって走ってる最中にふと思った。

ダンボールの束?これ先生達があらかじめ用意しておいたんじゃねーか?もしそうなら怒られることはないな。でも、だったらわざわざ隠さないで言えばいいんじゃねーか?むしろ言った方が『お、気が利くじゃん!』ってなるよな。でもあれか、今どき草スキーなんてやらねえんじゃねえか?って思ったのか?『ダンボール用意しておいたから草スキーやっていいぞ!』って意気込んで言って誰もやらなかったら完全にスベったことになってヤバいからそっと置いておいたのか?いやいや小学生を甘く見るなよ!6年とは言えダンボールと芝の斜面があれば絶対やるわ!」

そんなことを思いながら、ダンボールを左脇に抱え土手に向かって走って行った。サーフボードを抱えて海に向かって走って行くサーファーってこんな感じなのかな〜って思ったが、僕は泳げないのでその先を想像すると溺れるイメージしか浮かばないから、せっかく上がったテンションが下がらないよう左手のグリップで素材の感触を確かめて、サーフボードの妄想からダンボールの現実へと引き戻した。

小林、大木、片岡を引き離してトップで土手に着き、そのまま斜面を駆け上がった。斜面は結構長く角度もあるし、草も枯れてもなく長すぎず程よい感じで十分楽しめるコンディションだ。すぐさま助走をつけてダンボールに飛び乗り、手元を少し手前に曲げたハンドルをしっかり握って、体をやや後ろに倒しながらも背中は付けずに足を浮かせて、摩擦をなるべく少なくするために斜面との接点をお尻だけにしながら一気に滑り降りた。スピードに乗ったマシンは、ようやく到着した大木に向かって滑り降り、浮かした足を大木のボディーに照準を合わせる。瞬時に趣旨を察した大木も逃げることなく持っていたダンボールを体の横にヒラヒラさせながら待ち構える。実際にはダンボールなので布のようにはヒラヒラせずに、ボーリングでスペアが取れなかった時にピンをはけさせるバーのように前後にカクカク動いてるだけだがそれで十分だ。ダンボールに足が当たる瞬間にサッと後ろに避けて、ズレたカウボーイハットを被り直す仕草をしながら「オーレイ!」と大木が叫んだ。バランスを崩して止まった体を大木の方によじって「いや、それフラメンコ!」と即座に突っ込む。大木が「しまった!」と言う顔をして、まぶたを高速でパチパチさせた。コイツがいつも何かをごまかす時に出るクセだ。でも、この短い間に僕の意図を汲んで闘牛士に持って行っただけで十分で、そこに天然のフラメンコが乗っかってくるプラスαは、通販でビデオカメラを買うとバッテリーが2個付いてくるお得感を超えてきた。

さらに遅れてきた小林と片岡が両手の人差し指を頭に立てて大木めがけて突っ込んでいく。大木はそれをダンボールでヒラリとかわし、小林の背中にエアの槍を突き刺した。痛さと恐怖で暴れ牛になった小林を3人で押さえつけて大木がお腹めがけてトドメの槍を刺す。息絶えて横たわる暴れ牛を撫でながら大木と片岡に向かって

「お客さん、今日は良いの入ったんですよ。滅多に入荷出来ないA5ランクの小林牛(こばやしぎゅう)ですよ。ラッキーですね〜。どうされます?」

すると片岡が「じゃあカルビ貰おうか」

大木が「じゃあ俺は肩ロースで」

「かしこまりました。タンはどうされますか?」

片岡が「良いねえ!タンも貰おうか」

「かしこまりました」と言うや否や、小林のほっぺたを手でギュっと掴み、口が開いたところでベロを引っ張ろうとすると、小林が「んが、ンゴ」と苦しそうな声を出して僕の手を掴んで引き離し、「タンはやめろ!タンだけは!」と懇願したところでみんな爆笑した。「タン以外はいいのかよ!てか、なんだよこの牛角ニコント!」再びみんな爆笑した。

「ここ、結構滑るし距離あるからおもしれーぜ!」小林にダンボールを渡すと、息を吹き返した小林牛がウサギと化して斜面を登っていった。瞬時に勘を働かせた大木闘牛士が先でも良かったが、危うくステーキにされるところだった小林牛に敬意を払った。ダンボールの数が少なかったので、4人で1つにした。母親が生活必需品など大量買いで大型スーパーに行く時に荷物持ちとして一緒に行くことがある。その時に、例えば詰め替え用の石鹸を5個買う予定がたまたま5個しか無かった時は4つ取って一つ残す。どうしても欲しい人がいるかもしれないから一つは残しておくそうだ。まあ、突っ込もうと思えば、棚には無くても倉庫に在庫がたっぷりあるかもしれないし、次に来た人が何となく取ってしまって、その後にどうしても欲しい人が来るかもしれない。でもそんなことよりも、他人に対する思いやりを感じたことが重要で、この場面だけに限らず、もの心ついた時から、いやその前の抱っこやおんぶされてる時から、そう言うシーンを見てきたから僕にもそのような感覚が身についてダンボールを一つだけにしたんだと思う。

運動神経はまあまあの小林が多少ぐらつきながらも倒れることなく勢いよく滑り降りてきた。小林は小型で柴犬のような容姿の雑種を飼っている。僕もたまに散歩に付き合うけど、あれって急に引っ張られたり、方向を変えたりするので体幹が鍛えられるなあと前から思ってて、この降り方を見ると、いよいよそれに確信を持った。続いては大木。大木はゲーマーでどちらかと言うと文化系なのだが、運動神経も悪くはなく、ドッジボールなどでは投げるのもキャッチするのも上手く貴重な戦力で、じゃんけんでチーム決めするときは常に上位に指名される。そんな大木の滑りはスタートは良かったが中盤でバランスを崩し立て直そうと左に体を寄せた所であえなく転倒。やっぱり簡単そうに見えて意外と難しい。続いて片岡。片岡は運動神経は良い。体育では僕とともに目立つタイプだ。でもコイツはテンションが上がると無茶するタイプなので、おそらく調子に乗って助走をたっぷりつけてスピード勝負で来るはずで、ハイスピードかコケるかのどっちかだろう。案の定、土手の頂上を超えて外側に出て姿が見えなくなった。

「お前、どんだけ助走をつけんだよ!」僕が叫ぶと、

「行くよー!」と片岡が返してきた。その声が思ったより遠かった。

「どこまで行くんだよ!遠すぎるだろ!長い助走を抜けるとそこは雪国にだったじゃねーわ!」。

言い終わるか終わらないかのタイミングで走ってくる片岡の姿が見えて、軽くジャンプしてダンボールに着地したが、体の勢いにダンボールを持った手が付いて行かず離してしまい、そのままダンボールを置き去りにして横になってゴロゴロ転がり落ちてきた。まあ、助走を取った時点でボケてくるなとは思ってたが、やっぱりやってきた。3人で爆笑しながら服についた草や土を払ってやった。満足げな片岡の表情を見ながら、僕はこれを超えるボケを探すのに意識を巡らせていたとき、「ズルいよ、男子だけ!」と言う声が聞こえてきた。ダンボールを持った安岡夕子だ。

やっぱり来たか。薄々来るんじゃないかとは思っていた。あらゆることで僕に勝負を挑んでくる安岡夕子だからこれを逃すはずはない。ただ条件が一つ。それは先生の許可が出ること。安岡夕子は僕らみたいに怒られてまで無茶はしない。先生の許可無しに無断で来ることはない。そして来たと言うことは先生のお墨付きをもらったわだ。だとしたらダンボールもやっぱり先生が用意したのか?まあ、それは今となってはどっちでもいい。

「お前、スカートで出来んのかよ」

「出来るわよ!」

「俺のジーパン貸してやろうか?」

「うるさい!!」

ちょっとからかった感じになったけども、これを言ったのはやっぱりスカートがめくれると可哀想だと思ったのと、スカートが邪魔で本気で滑れないんじゃないかと思ったからで、なんなら本気でジーパン貸してもいいと思った。

「スカートなんか慣れてんの!甘く見ない方がいいわよ!ねー!」

って言いながら、一緒について来た今北知子の方を見て2人でうなずいた。

「よし分かった!じゃあヨーイドンでスタートしてどっちが早く滑り降りるかで勝負しよう!」

「いいわよ!」

「そしたらさ、俺さっき一回滑ったから、お前も練習で一回滑ってこいよ」

「分かった!」

安岡夕子がやや前傾姿勢で土手を登っていく。

「ここら辺から?」とスタート位置を確認してくる。ちょっと真剣な表情になっていた。おそらく下から見た感じでは大したことないけど、登ってみると結構高さを感じたからじゃないか。もちろんそんな怖がるほどの高さでは無いけど、ダンボール一枚だと十分バランスを崩すだけの距離は感じたようだ。

「もうちょっと上ギリギリでいいよ」

ギリギリまで上がってダンボールに座ると、スカートを器用に足に巻きつけてセッティングした。これなら本気で行けそうだ。ゆっくりと足で地面を蹴って動き出し、徐々に体重を乗せた。綺麗なフォームで中盤から加速して見事に滑り降りて来た。

「イエーイ!」

下で待っていた今北知子とハイタッチした。

正直ちょっとヤバいと思った。これはスタートダッシュしないと負けるかもしれない。出だしでスピードに乗れるかどうかが勝負だ。

「シンちゃん勝てる?」

大木がいたずらっぽく笑いながら言ってきた。

「楽勝だろ」

「下でこれやってようか」

大木が布をヒラヒラさせるポーズを取った。

「これやってた方が速くなんじゃない?」

「いらねえよ。ノーマルで楽勝だって」

片岡からダンボールを受け取ってスタート地点に向かった。

「キター!こっちが合図したらヨーイドンって言ってくれ!」

斜面の中腹で振り返ってキタに頼んだ。土手の最上部まで登りスタート地点に着いた。お互いが接近した方が勝敗が分かりやすいけど、もし転倒したら接触する可能性もあるので、2コース分幅を空けて位置に着いた。

「フライング無しだかんな」

気合の入ってる安岡夕子に言った。

「そっちこそズルしないでよ」

ゴールの方に視線を向けたまま言ってきた。

「よーしキタ!いいぞー!」

キタの方に手を振って合図を送った。横で大木が布のヒラヒラポーズを取ってやがる。

「位置に着いて!ヨーイ!スタート!」と同時にキタが、挙げていた右手を勢いよく下ろした。

「いや、『位置に着いて』はいらねえだろ」と、心の中で思いながら地面に着けていた両足を強く蹴って加速した。最高のスタートで安岡夕子を体一つリードした。スタートさえ決まればあとはしっかり体重を乗せて滑れば負けることはない。中腹に差し掛かるところで横を見たが安岡夕子の姿は見えず、「あー!」と言う声が結構後ろの方で聞こえた。ここで勝利を確信し、あとはヒラヒラやってる大木にケリを入れる態勢に入った。

「遅くね?スタート失敗したか?」

ゴールして安岡夕子に聞いた。上から目線ではなく、純粋に思ったより差がついたので確認してみた。

「スタートで足が滑っちゃった。あれがなければいい勝負だったのに〜!ねえもう一回やろう!」

正直、この勝負で僕がよっぽどのミスをしない限り負けることはないと分かった。もちろんもう一回やっても良かったけど、連敗させるのもなんか気乗りしなかったし、他の4人にギャラリーとして立て続けに付き合わせるのもなんかイヤだった。

「よし、じゃあ団体戦ってのはどう?俺らは4人で、そっちはお前とキタと二人で二回づつの計4回戦で」

「いいわよ!よーしキタ!絶対勝とうね!」

男子軍vs女子軍にしたら安岡夕子は俄然燃えてきた。まあ軍と言っても女子は2人だけど、女子を背負うとさらに強さを増すのが安岡夕子なので、面白い対決になりそうだ。

「今のは個人戦って事で、改めてこっから始めよう。そっちはキタだよな。ならこっちは大木で行くぜ!」

勝手に団体戦になって、しかもキタが参戦することになっているけど、そもそもキタはこれ、やりたいのか?いや、僕が団体戦にしたのはキタも一緒にやりたいんじゃないかとも思ったんで、それは安岡夕子のように積極的ではなくむしろおとなしい方だから自分からやりたいとは決して言わないだろうし、しかも楽しそうに見てたから誘えばやるんじゃないか、楽しんでもらえるんじゃないか、と思ったからだ。

「キタ、お前やるだろ?大丈夫だよな?」

「うん。」

「そっか、お前高いとこ好きだし、将来CAになるんだもんな。これでシミュレーションしといた方がいいもんな。」

「違うよ!」

「あそっか。身長で落とされるか」

「違う!」

キタはいつもの笑顔でケタケタ笑った。

キタはそれほど運動神経が良いわけじゃないし、おそらくゆっくり降りてくるだろうから、ここはさっきバランスを崩してコケた大木で勝負させよう。

「よっしゃー!大木行けー!」

2人は土手を登って行ったが、思ったよりキタの動きが良い。珍しくアドレナリンが出てるのか。

スタート地点に着いて、2人で何か話してる。ジェスチャーから見ると、大木がキタにやり方をレクチャーしてるようだ。ダンボールの持ち方や滑る格好を教えている。そうだ!キタはまだ試走してなかったんだ!でも本物の車を運転するわけじゃないし、ただダンボールに乗って滑るだけだから試走なくても問題ないだろ。大木も偉そうにレクチャーしてるけど、お前さっきコケてるからな。

「2人とも準備いいかー!」

僕の呼びかけにレクチャーの終わった2人が手を挙げた。

「ヨーイ、ドーン!」

なんと、キタが出遅れることなくほぼ同時にスタートした。安岡夕子の試走と僕とのレースを見ただけでコツを掴んだらしい。土手をスタスタ登りアドレナリンが出てるのもうなずける。自信があったんだ。しかも前半からスピードに乗って大木を僅かにリードしてる。キタはさらに加速して中盤までに体一つリードした。

「頑張れキター!」

「テメエ大木ー!何やってんだよー!」

安岡夕子と僕の叫び声がちょうど重なったその時だった。思ったよりもスピードが出てちょっとビビったキタが思わずかかとを地面に軽く着けて少しブレーキが掛かってしまいバランスが崩れそうになって、それを立て直そうと咄嗟に手をついてしまったところで左側に倒れてしまった。でもスピードがだいぶ緩んでいたし、ゴロンと反転した感じで頭をぶつけたわけでもないのでたいしたことはなさそうだ。さっきの片岡のジャンピングライドからのゴロゴロ落下に比べれば、サッカーならわざと倒れたシミュレーションを取られてイエローカードレベルのコケ方だ。

「お前、キタがコケなかったら負けてたぞ!」

ゴールした大木と一応ハイタッチを交わした。キタを確認すると止まった場所で座り込んだままだ。

「おーいキター!大丈夫かー!」

リアクションなく背を向けて座り込んだままのキタに安岡夕子が走って近付いていた。

「キャー!!」

状況を確認した安岡夕子が悲鳴を上げた。

「進藤ー!早く来てー!」

振り向いて叫んだ時には僕はすでにキタの方にダッシュしていた。2人は斜面の中腹よりやや下にいる。坂を這うように上がっていく。なぜかなかなか追いつかない感じがする。1秒ってこんなに長かったか?夢で誰かに追いかけられてる時になかなか前に進まずもがき苦しむことがあるが、現実でもあるのか?と言うくらい進まない感じがした。ようやくキタの横まで来てその勢いでスライディングして正面に回った。

「どうしたキタ!大丈夫か?」

真っ青になっているキタの顔から目線を下に落とすと、左手で右手のひらを抑えているその中指からポタポタ血が垂れている。

「切ったのか?ちょっと見せてみろ」

押さえていた左手をそっと離した右手のひらには、中指の付け根から手のひらの下の方までザックリと切れていた。

「ハンカチかティッシュあるか?」

呆然としていた安岡夕子がハッと我に返ったかのように目の焦点が合い、すぐにハンカチを取り出した。手のひらに軽く当てて、後から取り出したティッシュを受け取った。一旦ハンカチを外してティッシュでそっと傷に沿って血を拭き取り、もう一度詳しく傷口を確認した。ガラスに破片で切ったのかキレイに切れていいる。長さは最初見た時と同じだけど、手のひらの真ん中あたりの3センチくらいは深く切れていて、ピンク色の肉が見えたがすぐに血が出てきて傷口を覆ってしまった。もう一度ティッシュで血をぬぐい傷をチェックする。何か刺さってる様子が無いのを確認してティッシュを厚めに傷口に当てて、それをハンカチできつく縛った。

「片岡、先生呼んで来い!」

様子を見てた3人のうち一番足の速い片岡に頼んだ。

5年生の時、体育でリレーをやってたて、アンカーの僕と岩田がデッドヒートを繰り広げ、最後のコーナーを曲がるところで互いの足が引っかかって転んでしまった。その時肘を擦りむいて、しかもコンクリートに散らばってる小さくて細かい石が5、6個めり込んでしまった。保健室で保健の竹内先生が、

「傷に入ってる小石を取らなきゃいけないのね。取らないと後で膿んできちゃうから。ピンセットで取るけどかなり痛いよ。でも進藤君なら我慢できるよね。痛くても絶対に腕動かさないでね」

と言ってゴリゴリ取り始めた。メチャクチャ痛かった。素人目に見ても器用じゃないとわかる。僕は注射でも打つところをしっかりと見るタイプで、この時も竹内先生の処置を凝視していた。仮にそれがプレッシャーになったとして、それを差し引いても不器用だ。傷口をガリガリ擦るけど小石はなかなか取れない。バースデーケーキの周りに生クリームを絞り出す道具でチョンチョンと飾る、あれをやらせても絶対汚くなるタイプだと思った。

そんな経験があったから、キタの傷口をチェックして、異物が入ってないことを確認して強く押さえた。もちろん細かい部分は病院で処置してもらうとして、とりあえず竹内先生が来るまではこれで良いだろう。あまりの傷の大きさと深さ、それと滴る血で悲鳴も泣くこともせず青くなって某然としてたキタが、血も止まりなんとなく見た目は応急処置が出来た風なので少し落ち着きを取り戻した。そうなると現実味が出てきて、当然痛みも感じ始めたからか、シクシク泣き始めた。僕も処置するので精一杯で、安岡夕子も滴る血を見てさすがに怖気付き、お互いキタに何も言葉を掛けないでいた。

「キタ、痛くねえか?とりあえず血は止まったみたいだし、今片岡が先生呼んできてくれてっからもうちょっと我慢な。でも大丈夫だよ。傷口も逆に綺麗に切れてるし、綺麗にって言うのはギザギザじゃなくて、シュって感じで。なあ安岡」

「私、傷口見てないもん。なんか『やべえな』とか『深えな』とか言ってたからさ」

「言ってねえよ!ふざけんなよ!」

マジか?全然気づかなかった。いやさすがに動揺して独り言でつい言っちゃったか?キタの顔を見た。少し回復したものの、まだ青ざめていてシクシク泣いていた。そこでハッと気付いた。自分に出来ることがあるだろ!これじゃ真逆じゃねーか!

「いや〜、でもキタ良かったな!傷入って生命線めっちゃ長くなったぞ!こりゃ100まで生きるな!」

手相は全然知らないので縦線が生命線かどうかも分からないけど、今はそこはいいだろう。とにかく今自分に出来ることは、笑いで少しでもキタの不安をまぎらわせてあげること。

「あれ、それ運命線じゃなかったっけ?」

安岡のやつからんできやがった。

「今そこはいいんだよ!いちいち!しかもこの状況で運命線とかよく言えんな!」

しまった!と言う顔をした安岡は、慌てて

「いや、キタ、そう言うんじゃ無いからね!」

キタの顔色が少し戻ってきた。

「でもよ、海の中じゃなくて良かったよな。海だったら血の匂い嗅ぎ付けてサメが来るぞ。キタなんかガブっと一口でイカれちゃうな」

「あんたこそ、サメにガブリとか痛そうなこと言ってんじゃ無いわよ!」

顔色だけでなく、表情のこわばりも緩んできた。僕も安岡夕子も緊張のピークから解放されて少し余裕が出てきた。

「あそこです」

なんとなくそう聞こえたので下を見ると、片岡が担任の石橋先生と保険の竹内先生を連れてきて、そして4組の南先生も一緒に付いて来た。南先生は痩せていて背が高く、顔が細面なのでみんなから影で「カマキリ」と言うあだ名が付いていた。格好のネタが来た!僕はすぐさま、

「デーレン、デーレン、デーレンデーレンデーレンデーレン・・・」

映画「ジョーズ」でジョーズが近づいてくる時の効果音を口ずさんだ。

「おいキタ!お前の血の匂いを嗅ぎつけてサメが来たぞ!ほら、あっち見てみろ!」

キタの視線を南先生の方に誘導した。

「ほら、な!あ、ごめん。サメじゃなくてカマキリだったわ!」

キタだけでなく安岡夕子も瞬時に爆笑した。

「バカ!キタ、笑うな!お前ケガしてんだから笑ってたら先生に怒られるぞ!」キタの顔を下に向けて僕の体で向こうから見えないよう隠した。

「でも良かったな、サメじゃなくて。カマキリで。でも今日は特別にカマキリ感出してるな」

込み上げる笑いを必死にこらえる安岡夕子に腕をペシっと叩かれた。キタも怪我をした右手を強く押さえながら必死に笑いをこらえていた。痛みだけだなく笑いをこらえるために強く押さえてるようにも見えた。

先生方に事情を説明し、竹内先生が傷をチェックして近くの病院へ行くことになった。やはり傷口は広くて深いので外科で縫わないといけないだろうと言うことだった。公園まで戻る途中になんとなくポケットに手を入れた。そこには帝釈天でおばあちゃんにもらったカピバラのキーホルダーが入っていた。

「キタ。これ幸運のカピバラなんだって。すげえ効くらしいからお守りで持ってけよ」

包帯の巻かれた右手を手に取り、包帯の中の傷に沿ってカピバラをチョンチョンと歩かせたあと、左手に手渡した。キタの表情は痛みで眉間にシワが寄っていたけど、全体的にはいつもの感じに戻っていた。


里見公園での休憩を終え、僕を先頭に、キタのいない1班のメンバーが縦に並びゴールに向けて再び歩き始めた。なんだかキタのケガがしばらく前の出来事のように感じながらも、キタの様子がどうなっているか鮮明に頭を覆っている。ケガの処置からキタを励ましている時は夢中でそのことに集中していてそれ以外のことは何も考えられなかったが、病院に見送る少し前からものすごい罪悪感が襲って来た。僕がキタを誘わなければこんな事にはならなかった。キタにケガをさせておきながら、キタを励ますために笑わせようなんて単なる責任逃れじゃないか?キタのためなんかじゃなく自分が安心したいためなんじゃないか?

そんなことが頭の中をグルグル巡っていると、いつのまにか新葛飾橋に差し掛かっていた。橋の上からなんとなく大雑把に景色を眺めてた。そうしながら目についたいくつかのものにフォーカスしてみた。その時ふっとある思いが頭に浮かんだ。

「土手には犬の散歩をしている人がいる。工場からは煙が出ている。もちろん橋には車が走っている。気持ちいい青空には優雅に雲がゆったりと流れている。これって、僕が今日ここに来ても来なくても同じように活動してるんじゃないか?と言うことは、僕がいてもいなくてもここから見える営みは存在し、いやここだけでなく世界の全てがそうで、だとすると、僕はこの世界に特に必要ないんじゃないか?それほどちっぽけな存在なんじゃないか?」

ゾッとした。こんな事今まで思ったことはない。やはりキタのことがあって少し変になってんのか?怖さと無力感が襲って来た。

班長!何やってんの!」

ハッと我に返った。安岡夕子だ。

「そんなとこで突っ立って何やってんの!」

安岡に言われて初めて自分が立ち止まっている事に気付いた。歩きながら景色を見ているつもりだったので、よほど思考にとらわれていたんだろう。

「早く戻って!班長!」

「おお。」

前を歩く安岡夕子のオレンジ色のリボンが揺れていた。なんだか夢から覚めたような、安心した気持ちになった。